平成29年3月29日~5月11日執筆
最近高齢の話題が多くなった気がする。自分も高齢者なので関心がある。
などなど。
自分なりに考えてみた。
「何才まで生きるか」
「百歳まで生きるとしたらどうなるか」
「どんな死に方が良いか」
「死んだ後はどうなるのか」
「生活に幾らお金がかかるのか」
「お金をどうするか」
何才で死ぬのがいいか
私は今73才。いい歳だ。だからと言って「明日死んで下さい」と言われても困る。せめてあと5年か10年生きたいと思う。ただ仮に後10年生きたとしたら、83才。その時点でまた問われたら「せめて後5年か10年生きたい」と言うのではないか。93才になったらまた「せめて後5年か10年生きたい」きりがない。
しかし、これしか言いようがない。百才までいるかもしれないし、明日死ぬかもしれない。神様仏様にお任せするしかない。
ただ、これまで死はとても怖いと思っていた。死は自分に無関係、他人事と思っていた。しかし、いよいよ自分のこととして考える必要がある。最近同級生が何人か亡くなった。
先日知人から「相続を考えるなら今のうちの方がいいですよ」と言われた。私はへそ曲がりで他人様に言われたくないし、自分が死んだ後のことは考えたくない。ただ認知症になることもあり得る。
昔、私の母が認知症になってしまった後に、本人意思の確認という面倒なことがあった。そんな事を考えると、自分の意志を言える今の段階で何かをしておくのも1つの方法だろう。知人の助言も必ずしも無駄ではない。
遺言状も1方法だ。昔親戚が遺言状を作るのに公証人役場で立会人になったことがある。いざこざを防ぐためにも有効な手段だ。
私は子供のころから健康優良児だったが、5・6年前から医者に罹ることが多くなった。脳梗塞を患い救急車で運ばれた。大腸のポリープが見つかり大腸癌を手術した。術後の検査で肝臓癌があった。それも簡単な手術で抑え、3カ月ごとに消化器内科に通っている。前立腺肥大症もある。ただ、これらで死を意識していない。先生に「お酒が飲めるように治して下さい」とお願いし、今でも晩酌をやっている。医者通いをしているが、極めて元気だ。
私は一応、社会保険に加入しているので、医療費に保険が適用される。自己負担は1割だ。ありがたいと言うか、申し訳ない。この役たたずの年寄りのために高額の国費を使わせている。
医療の進歩は凄まじい。私の父は亡くなってから30年ほどたつが69才だった。死んだ後解剖してみたら癌だと分かった。糖尿病で入院していたが、周囲の者も本人も癌があるとは知らなかった。当時は癌といえば不治の病。ショックを受けるかもしれないので、見つかっても本人には告げないのが一般であった。
私の時は大腸癌、肝臓癌も医者から「癌です。治療しましょう」と簡単に言われて「そうですか、ではお願いします」と別に重大と考えず、淡々としたものだった。
事実どちらも手術は数十分で終わり術後は順調に経緯している。癌は不治で怖いものと言う意識を変えなければならない。ありがたい時代だ。一方年寄りはなかなか死なない。
長生きはありがたいが、世の中全体からすれば、年寄りは邪魔者と言うことになる。年寄りの立場から言えば、邪魔者扱いされないようにするにはどうすればいいか。大きな課題だ。
昨日(平成29年6月5日)「家族はつらいよ」(松竹、山田洋二監督)という映画を見た。73才の平田周造が主人公でマイカーの外出をささやかな楽しみにしていたが、高齢者の危険運転を心配した家族が運転免許を返上することを画策する。頑固親爺の説得は一筋縄ではいかない。そんな平田家に起こる騒動の物語だ。同年齢の自分には他人事に思えない内容だった。
携帯電話のauショップから「ポイントがたまっているので、スマートホンに替えませんか」というメールが届いた。その気になってスマートホンを買いに行った。色々説明されたがよく分からない。同行した妻に試しに電話してみてかかったので、それでいいと思って帰宅した。早速友人に電話してみようとしていじったが、うまくいかない。翌日またauショップへ行き見てもらったが、ロックがかかり店では対応できないとのこと。確かに色々いじったが、買った翌日に同じ店に持って行き対応できないとは、納得出来ない。老人には新しい機械は無理か?(閑話休題)
※閑話休題:それはさておき
どんな死に方が良いか
ピンコロ(ピンピンコロリ)が良いと思う。しかしそう旨く行くか。私の従弟は早朝ジョギング中に心臓発作を起こして逝った。苦しかったか否かはわからない。新聞配達の人に見つけられて、警察から家族に連絡があった。
近所のある人は町内会の新年会の温泉で倒れて亡くなった。みんなで楽しく美味しいお酒を飲んで、お風呂で気持ちよく逝ったと思う。一緒にいた人たちや家族にとっては突然で驚いただろう。しかし死に方としては長患いもせず、家族に看病の迷惑もかけず。羨ましいと言っては叱られるだろうか。
近所に93-4才のお婆さんがいる。数年前から胃婁を付けて施設にいる。家族が行っても分からないらしい。これも大変困る。死なないだけでこの世にいる意味がない。
痛くなく、他人様に迷惑をかけず、静かに逝きたいものだ。
※胃婁:おなかに開けた穴にチューブを通し、直接胃に食べ物を流し込む方法
まだ子供たちには言ってないが、もし私が病気になり、治らないとわかったら、延命治療などせずに、痛み止めを処方するように医者に頼んで欲しい。
死んだ後どうなるか
「葬式の費用くらいは残して置きたい」と考える人がある。そのために保険や葬儀屋の友の会に入る。また祭壇に飾ってもらうために気にいった写真を準備する人もいる。
私の考えは違う。葬式は本人がするものではなく、子供や後に残った人が決めることで、死ぬ前にあれこれ注文すべきではない。葬式をするもしないも本人は死んでしまっているので分からない。盛大な葬式をしようが、直接火葬場で燃やして灰をどこかに捨てようが、他人様の邪魔にならないように始末してもらえれば良い。
死んだ後は地獄に行くか極楽かは分からない。自分では悪人ではないつもりだが、良いことをした善人でもない。どちらかというと地獄の方が近いかもしれない。私は真宗の門徒なので、阿弥陀如来さまが面倒見て下さると思っている。お任せしておく。だからと言ってお寺に寄付するお金はない。寄付する気持ちもない。神仏は金のあるなしで功徳を塩梅するわけでなく、平等に扱って下さると思う。
百才までどう生きる
どうも、百才近くまで生かしていただけるようだ。色々な統計で最近の死亡年齢は80才代以上が多い。つまり医学の進歩で、死亡年齢がだんだん高くなっているようだ。簡単には死なない。問題はあと30年ほどどうするかだ。ゲートボールも良い。旅行も良い。身体が丈夫で元気なうちはそれも良いだろう。しかし体が弱ったら老人ホームしかない。
ただ元気にやって行くにも老人ホームにしてもお金が必要だ。一体いくら必要なのか。
生きて生活して行くためには衣食住の費用が必要だ。線香の煙を嗅いで生きる訳にはいかない。
ただ元気で楽しく暮せば良いだけではつまらない。働いて少しでも世のために役に立ちたいと思う。私は現在畑仕事がある。茄子、胡瓜、トマト、ネギは自家消費。イチゴは沢山採れるが孫たちは酸っぱいし時々ナメクジがいるので敬遠がちだ。ジャガイモ、サツマイモは好評だ。亡き父が残した柿は沢山収穫出来る。柿は好き嫌いがあり孫たちは食べない。柿泥棒もいない。しかし消毒や草刈りなど年寄りの仕事と暇つぶしには十分だ。畑に行くのに軽トラックを使っている。今は大丈夫だが、高齢者として免許証を取り上げられると困る。
車の免許証のことで、今日のテレビで76才の女の運転する軽乗用車が病院の待合室に突入して何人かの人が怪我したと報じていた。高齢者の事故が絶えない。自分がその犯人になってはならない。いずれは運転をやめなければならない。
話を元に戻して、何をするかだ。今考えていることは、不要の木材を使ってあるものを作ることだ。作るための道具を作っている。これで暇なときに物(秘密)を作り溜めしてインターネットで売ろうと考えている。この物(秘密)は世の中に大量には必要ないがそれなりに必要で、売れると思う。不要木材の活用になり、若者の仕事を奪うこともない。年寄りの暇つぶしになり、小遣い稼ぎにもなる。一石二鳥だろう。
もう1つ竹を利用しようと思う。我が家には竹林はないが、友達の所にはある。毎年筍を頂いている。流しそうめん用の竹ももらっている。この竹を利用して竹籠や竹の食器を作れないか。これらをインターネットで販売すれば、年寄りの小遣い稼ぎにならないか。
シルバー人材センターは老人の経験や知識を役立てようとする制度だ。ただ、実態は雑用をあてがっているだけ。これはこれで何かをしたい人としてほしい人とを仲介することで役立っている。
発明工夫も面白そうだ。テレビでやっていたが、暮らしの中で思いついたちょっとしたアイデアを特許出願して商品開発すれば素晴らしい。力仕事と違って体力がなくても出来る。ボケ防止にもなる。ただ、年寄りが暇にまかせて粗製乱造して出願すると特許庁が困るかもしれない。
※粗製乱造:品質を考えないで、粗悪なものをやたらにたくさん作ること
そこで老人の発明クラブを作ったらどうか。年寄りの経験や知恵を生かし本人のためにも世の中のためにもなるクラブを作りたい。発明に関心のある人が集まり、互いのアイデアを出し合う。そして議論し知恵を絞る。その結果単なる空論で終わるかも知れない。そのときは「頭の体操をした」と笑って済まそう。ところがひょっとしたら素晴らしい発明が生まれるかもしれない。特許申請し更に商品開発をする。「みんなが力を出し合い、物を作る」素晴らしいではないか。
趣味をもつのもいいことだ。ある友達は俳句を作り新聞に投稿して楽しんでいる。頭の体操に良いようだ。平成の正岡子規になるかもしれない。テレビでプレパドとか言う番組がある。面白い。だが、金にはならない。私には俳句の才能はない。
ある人は仏像を彫っている。70才過ぎてから始めたらしいが、本人は至極まじめだが、お世辞にも上手とは言えない。床の間に飾って喜んでいる。ある人は写真を趣味にして晩年方々に出かけて撮って段ボールに箱2個あったのだが、亡くなった後で家族が始末に困ったみだいだ。平成の運慶も仏像もこの類かもしれない。
私は趣味に興味はない。90才過ぎても華道や料理の先生をしている方をテレビで見る。そんな才能のある人は羨ましい。しかし、金になるような才能はない。特別な才能がなくても年寄りに出来る素敵な仕事はないだろうか。
年金は何歳まで貰えるのか
年寄りの暮らしは幾らかかるのか
今私は厚生年金を貰っている。年金の限度額は知らないが、生きている限り無制限に支給されるものでもあるまい。
結局子供の世話になるのだが、子供の財力でどこまで面倒見てくれるだろうか。
生活に幾らかかるか。今月から小遣い帳を付けている。まだ始めたばかりだから分からないが、無駄使いが多い。
いつ認知症(ボケ)になるのか。ボケたらどうするか。いつまで生きるか。いつまで資金が続くか。答えはない。最近私の友人や知人でつれあいが認知症になったと言う話が幾つかある。店で客の応対や経理を担当して社交性もあり頭も悪い訳ではない。それが外出して家に帰れなくなった。何をやっているかわからないなどだそうである。自分が認知症になるだけでなく、つれあいがなる場合もある。私がボケて妻は正常で妻に面倒見てもらう事を前提に物事を考えている。妻のボケは想定していない。
最近物忘れが多くなった。先日1人でスーパーに行って買い物籠に品物を入れてレジに並んだ。自分の番になって財布がないことに気付いた。慌てて店員に告げ、車に財布を取りに行き何とかその場を凌いだ。ボケの入り口なのか。
考えたらきりがない。その日その日を精一杯生きること。
結局どうしたいのか
どうなるのか
新聞に「ただいま参る浄土」という文章があった。(平成29年5月9日、中日新聞、田代俊考同朋大学教授)「思い通りにならないものを思い通りにしようとすればするほど苦しみになる」「頑張る必要がない、あるがままをあるがままで良しと頷ける世界が開かれてくる。心が自然の浄土を遊ぶ境地である。私は死後ではなく、今救われたい」
結局「百歳まで生きるかどうか、生きるとしたらどうするか」自分で決めることはできない。考えていてもしょうがない。お念仏をぼそぼそと唱えて毎日を感謝して自分なりに精一杯生きること。回り道をしたがこれが結論。



















「認知症の家族を介護した」
「安楽死がいい」
「九〇才何が目出度い」