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とりあえず高校に行った結果、こうなった



私は現在45才。30年以上前。私が中学2年生の時、母親にこう言われました。


「とりあえず高校に行きまっし」(金沢弁)


進路のことなんて何も考えていなかった私は「どこの高校に行ったらいい?」と母に聞きました。すると母は、「あんた絵描くの好きやろ?私と同じ学校に行ったらいいわ」と言われました。


というわけで、私は母の卒業校である石川県立工業高校のデザイン科に入りました。母が先生と推薦の話を進めてくれたので、推薦で入りました。



高校2年生になると、今度は「とりあえず大学に行きまっし」と言われました。母が私にあいそうな大学を探してきてくれたので、じゃあ、そこに行こうということで、進路を決めました。


私は頭が悪く、中学生の時から家庭教師の先生に勉強を見てもらっていました。先生の指導のおかげで、数学と英語はすごく成績がよくて、100段階評価の成績表に100ってついたことがよくありました。


でも社会は嫌いだったから全く勉強せず、赤点ばかり。漢字なんて間違いだらけだし、国語も理科もひどい点数です。とにかく数学と英語の成績で、他の悪い点数をカバーし、なんとか平均点くらいになってたはずです。


大学は大阪芸大の映像学科に、これまた推薦で入りました。親と家庭教師の先生のおかげで、私はとりあえず大学生になりました。


大阪で1人暮らしを始めると、生活が一変しました。金沢にいた時は、朝6時に起きて朝ご飯を食べ学校に行き、夕方6時に夜ご飯を食べ、風呂に入り、8時には自分の部屋に行き、勉強したり、絵描いたりして、そして寝る、という規則正しい生活をしていました。


ところが1人暮らしを始めたら、なんでも自由でした。トイレでマンガを読んでも、床に物を置いといても母に叱られない。勉強もしなくてよくなりました。


すると、私はどんどんだらしない生活になっていきました。部屋も汚いし、食事もてきとう。母の手料理がどれだけすばらしかったのか、初めて気づきました。



私の専攻は映像学科だったので、シナリオの書き方や、撮影の仕方など、面白そうな授業がありました。しかし面白そうなだけで、面白くはありませんでした。


一般教養の授業には、体育や英語があり、バカバカしくて受けたくありませんでした。でも必須なので、単位を取らなければ卒業できません。そもそも勉強が嫌いなのに、大学来てまでなんで勉強しなきゃいけないんだと、学校に行くのが面倒くさくなってました。


大学生になると母は電話で、成人式で着る着物の話ばかりするようになりました。母はとても気が利いて、先回りしていろいろ物事を決めてくれます。しかし私は先の話をされるのがどうにも嫌で、先のことを考えないように行き当たりばったり生きるのが好きでした。


入学当時、私はロングヘアでした。田舎から出てきた、いいとこのお嬢さんっていう雰囲気だったと思います。


ある日、私は美容院で髪を切りました。すると、なんか変な髪型になっちゃったので、私は家に帰って自分でハサミで切りました。すると切ったらもっと変になっちゃて、もっともっと切りました。もみあげもそっちゃいました。すると、もみあげのないサルのような頭になりました。



私は泣きながら友達に電話しました。すると友達が「眉毛を細くしてみよう」とか、「髪を金髪にしよう」とかいろいろ試された結果、私は私でなくなりました。


大学1年のゴールデンウイークに金沢に帰って来るように言われてました。その時に着てくる服も、母が用意してくれていました。私は母が用意してくれた、セットアップの服を、おサルさんヘアーで着て帰りました。


すると母と父が激怒しました。「美容院に行って髪を黒く染めてこい!」と怒鳴られ、私はそうしました。そして母に「成人式までに髪を伸ばしなさい!」と、延々と説教されました。それから「あんたを大阪に行かせたのは間違いやった」とも言われました。


母の手料理はめちゃめちゃ美味しいし、タオルはふわふわだし、家の中はきれいだし、すっごい良い家だったはずなのに、この時、金沢がとてもしんどく感じました。大阪の汚い自分の家に戻ると、なんかホッとしました。


私が大学生になって楽しいと思ったのは、劇団サークルの活動でした。サークル活動するためだけに、大学に行ってました。


その次に面白いと思ったのがバイト。働いたらお金がもらえるので、いっぱい働きたいって思いました。バイト先で彼氏もできて、恋をして、とっても楽しかったです。



しかしこの時、私は重大なことから目を背けていました。実は私は体育と英語の単位を落とし続けていたのです。


私は3年生から4年生に進級できませんでした。でも親には黙っていました。だって怒られるから。しかし2度目の3年生の冬には、意を決して親に言いました。


「大学をやめたい」


すると父も母も大激怒です。父と母は映像学科の教授に、卒業させてくれと頼みに行ってくれました。結果はダメでした。教授は「お子さんの好きにさせてあげたらいかがですか?」と言ったらしいです。でも母は、「私がほしいのは卒業証書です!」と怒鳴ったらしいです。


大学4年生は地獄の年でした。だって同級生はみんな卒業しちゃったから。私が落とした必須の体育は、土曜の1限目。私はとにかく、土曜の1限目に寝坊をしないことが、最重要事項でした。この体育の授業はほんとに最悪で、後輩はジャージのデザインが変わっていたのです。だから私が留年していることが、一目でわかりました。


2限目は必須の英語。この英語の先生は、私のことをクズだと思っていたことでしょう。私もその先生の授業なんて受けたくないけど、単位をもらうためには授業に出るしかありませんでした。


この大学4年生の時の悪夢を、そこから定期的に見るようになります。単位がもらえない恐怖にうなされて、目が覚めるんです。マンガみたいだけど、ほんとの話です。



母は「とりあえずどこかに就職しまっし」と言いました。時代は就職氷河期。私のような何もできない人間を、どこが雇ってくれるんだろう?私は時代のせいにして、てきとうに就職活動をしました。金沢に帰ってこいとは言われたけど、帰りたいとは思いませんでした。


私はとりあえず、ファーストフードの契約社員になりました。芸大まで出たのに、なぜ私はハンバーガーを売ってるんだろう?と、よく思いましたが、てきとーに仕事をしました。大学時代のサークル劇団がとても楽しかったので、その延長で劇団に入り、演劇はずっと続けていました。


25才のある日、突然声がうまく出せなくなりました。痙攣性発生障害という病気を発症したのです。仕事に支障が出て、演劇もできなくなりました。当時は病名もわからず、謎の状態にただただ苦しみ、親に心配かけたくないから親にも言えず、毎日泣いてました。唯一彼氏だけに声の悩みを言ってたけど、彼氏も困ってました。


私は彼氏とうまくいかなくなり、お別れし、千葉に住む妹を頼って、千葉県に引っ越してきました。この痙攣性発生障害という病気は、しゃべれなくなるわけではないし、誰も気づきません。気づいたとしても、苦しそうに喋る人なんだなって思うくらいです。私は心機一転、千葉でやり直すことにしました。


ところが引っ越しして2か月後、父が脳梗塞で倒れました。私と妹が金沢にかけつけると、父が集中治療室でベッドにひもでつながれて、あばれていました。父はとても頭が良く、人前でスピーチしたり、おしゃべりが上手だったのに、その時の父はろれつが回らなくなってました。


脳に欲望を制御する部分があるらしいのですが、そこの部分の血管がつまってしまったために、あばれ出したら止まらないゴリラみたいになってました。



そのぶっ壊れた父を見て、私は金沢に帰ろうって思いました。自分の病気がちっぽけに思えたのです。私は千葉に引っ越したのもつかの間、全てを捨てて金沢に引っ越しました。あばれる父と一緒にいるのは、それはそれは大変でした。母も、そして弟も、めっちゃ大変そうでした。


弟の部屋にバイオハザードというゲームがあったので、私は父の相手以外は、ずーっとゲームをやってました。2回目のゲームクリアをしたところで、母にブチ切れられました。「お父さんの世話は私がやるから、あんたはとりあえず仕事を探してきなさい!」


私は高校時代の友人に電話をして、美容院の受付の仕事を紹介してもらいました。私はこっそり、声の注射を打ちながら、仕事をしてました。


1年経つと、父が奇跡的にふつうになってきました。平和をとり戻すと不思議なもので、いつもの父と母に戻りました。


父と母が今度は「とりあえず結婚しなさい」と言い始めました。そして私は、父のセッティングでむりやりお見合いをさせられました。お見合いはしたけど、私が「あの人と結婚したくない」と言ったら、父が怒りました。



・・・で、まあいろいろありましたが、何を言いたいかというと、私は今45才です。大阪で別れたはずの彼氏と結婚して、子供も2人授かりました。長女は現在中学3年生。


私には大卒という学歴があります。しかし私は、今じゃもう数学の問題も解けないし、英語なんか全くしゃべれません。けっきょくテストで良い点とるためだけの勉強しかしてなかったので、中身はアホのままです。


学歴ってなんなんですかね?学歴があってもクズのような生き方をしている人は、けっきょくクズなんじゃないでしょうか。そして学歴なんかなくても、人生を一生懸命生きてる人は素敵です。


だから長女にこう言いました。「怒られてもいいから、自分の道を行きなさい。間違ったなと思ったら、自分で考えて修正したらいいよ。とにかく私は、あなたが健康に生まれてきて育ってくれて、今こうして一緒にいるだけで幸せなのです」と。


親はけっきょく子供じゃないから、子供の人生に口出しはできても、やるのは子供自身なんです。だから私は口出ししません。私もアホなりに考えました。


というわけで教訓。
自分の人生は、自分で決めろ

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